思うこと2
この一週間というもの、何をしていたかといえば、定かには答えられない。
後からふりかえってみれば、ただ呆然として過ごしていたとしか、短い言葉ではいいようがない。たしかに濃密な時間は流れていたし、それは、他の平穏な日々であろうと、激流逆巻く日々であろうと、何の違いもないはずなのだ。しかし、ふりかえってみれば、はかない。何か意味のあることで時間を充実させたという手ごたえが残っていない。
漫然とテレビをつける。テレビは被災報道一色なので、どのチャンネルも大差ない。観ているだけで、いったい自分がどういう情報を求めているのかもわからなくなる。買い出しには、当然、時間を喰われた。並んでいるだけで、目当ての品物がどの棚にあったか見当もつかない状態には焦った。余震の多さにも神経がすり減る。一日のスケジュールを決定したのは、輪番停電の時間表だった。実施されるのかどうか直前になるまでわからない場合が多かった。ともかく電気が止まるという前提で日常の雑事を片づけておく必要があった。パソコンも古いワープロも使えない。どうしてもとなれば、動作の不安定なノートパソコンを引っ張り出してきて使うしかない。けれど、バッテリーがどれくらい持つのかも不明では、使っていてもストレスが溜まるだけだろう。
とにかく最優先事項は、本棚の大移動だった。崩壊の激しかった部分から修復していったが、もちろん、一日の労働量にも限度がある。予期せぬ事故で怪我をしかけた。地震の後始末で階段から転落したなどとシャレにもならない。被害がドアノブが壊れただけで済んだのは、せめてもの幸いだった。
本に埋もれて死ねば本望だろうとはよく言われる。しかし、じっさいは倒壊した本のために逃げ道を断たれる、というのが現実のようだ。草森紳一の『本が崩れる』だ。崩れた本によってドアがあかなくなる、あるいは、足の踏み場がなくなる、踏みつけて転ぶ。倒壊した本の怖ろしさはそこにある。その可能性を少しでも取り除ければと思って、移動作業につとめたのだが……。
この家屋、この本の量。環境は変えられないのだから、根本的な対策は立たない。
これで大丈夫ってところまでは、とてもとても。
この一週間、何をしていましたかの問いには、こう答えるしかない。本をね、あっちに移しこっちに移し。けっこうくたびれるもんです、と。安全対策の効果は? さて、変わんないみたいです。
日々はこぼれ落ちていく。
せめて、いくつかは書きとめておくことで、意味を見つけられるかもしれない。
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