×

思うこと1

思うこと1

 上のカウントダウンの数字は確実に減ってきている。
 今度の一件で、いちどは片づけたはずの「なぜ三人展をやるのか」という問いにふたたび直面させられた。わたしのほうの作業は前倒しで、すでに先行して終わっている。原稿を用意するという性格上、数ヶ月前に終えている必要があった。その後の進行は、ある程度「他力本願」になってしまうから、自分でコントロールはできなくなる。なので、わたしの場合は、今の時点で「なぜ今これをやらねばならないのか」という逡巡に立ち往生することからは免れている。
 一方で、他の二人は制作スケジュールとしては、いちばんの追いこみ時期に天災にみまわれたことになる。「神が与えたもうた試練」と受け止めるにも限度がある。とくに和灯屋の場合、昨日も書いたことだけれど、影響が甚大だ。原発の避難エリアに近接していることはともかくとしても、日常物資の不足、物流の混乱、ガソリン確保の困難、などなどの問題が複合しておそいかかっている。すべて一つひとつ気力を阻喪させる事柄ばかりだ。時間は逼迫してきているけれど、さまざまな代替プランを立てていかなければ、展望はひらけてこないだろう。
 その過程で、「なぜ今やるのか」という問いも再浮上してくるに違いない。
 戦後最大規模とか、歴史上未曾有とか称される巨大災害は、いまだ進行中ともいえる。被災地の復旧の見通しすら立たない上に、原発事故に関する「大本営発表」のもどかしさには目も眩む想いがしてくる。それらのことは絶対に頭から消せない。今は三人展などではなく、もっと別の「生産的な」ことに乏しい自分の力を注ぐべきではないか、という疑いに囚われる。けれどもそれは、要するに整理のつかない混乱だ。巷には、やたらに外出するな、電気を節約せよと「窮乏生活」の訓示が大声で飛び交っている(天皇と一部外国人は早々と首都から疎開していった)。
 そのこと自体は間違っていない。いや、疎開の話ではなく、耐乏生活のススメのことだ。ケイタイをつなげば相手との通信はイッシュン、電車はいつもダイヤ通りに運行するし、道路の渋滞は例外的なケース、といった快適な電脳生活の進歩の証しは、すべて砂上のミラージュだったかもしれない。蜃気楼の蒙昧から醒め、自然力の生活に立ちもどれ。そんな警告が「天から」発されたのだと反省することも必要ではあるだろう。しかし。
 それとこれとは別だ。
 もともと三人展なるものは、ささやかで私的なイベントとして立ち上げられた。The Unholy Three の現在的な自己確認、それ以上のものではなかったし、今もない。人がわんさか集まるビジネスなら、また、「団塊オヤジ第二の人生にチャレンジ」的なお祭りなら、協賛してやってもよいというお話もないではなかった。けれど趣旨から外れる方向については、慎重に考えてきた。
 だから、今の時点でいえることは一つ。原点にもどればいい。
 その上で、代替プランをいくつか立て、現実的な可能性を探る。
野崎六助

コメントを送信